まつなしのウカツにさらせないブログ

ウカツにさらせないごく普通の日常。

アベックは時間を止める

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昔から ”アベック” という言葉に反応してしまう。いや、正確には ”アベック” という言葉が発せられた場の空気に反応してしまう。

知らない方に向けて説明しておくと、アベックとは恋愛関係にある2人のことを、主に年配の方が呼称するときの言葉である。若者が言うところの ”カップル” である。いつも思うのだが、アベックという言葉のバランス感覚は絶妙である。その言葉が発された瞬間、取り立てて言及するほどではないのにも関わらず、その場に確実なインパクトと違和感を残す。ふだん聞くことが少ない言葉だからだろうか。

詳しくは忘れてしまったが、先日、講演会のような場に居合わせた。スピーカーの方を仮に大橋巨泉とする。講演中、大橋巨泉がおもむろにアベックと発言した。一瞬、自分の中の時間が止まる。大橋巨泉が発したアベックという言葉を脳内で反芻する。

なぜ彼は、米津玄師とあいみょんがカーモンベイビーアメリカしている2018年に、カップルではなくアベックと表現するカルチャーに生きているのか。そのカルチャーを育んだ背景には何があるのか。人生のどこかのタイミングで遭遇しているであろう ”カップル” という言葉を右から左に受け流し、なぜ彼はかたくなに ”アベック” を貫いているのだろう。

もしかすると、彼はアベックという言葉に命を救われた過去があるのかもしれない。胸ポケットに忍ばせていたアベックが銃弾から彼を守ったのかもしれない。高所から誤って転落したとき、下にあったアベックがクッションになったのかもしれない。ぼくはいったい何を言っているのか。

もしくはアベックという表現を使うことは、彼にとってただただ当然のことに過ぎないのかもしれない。カップルという表現は彼の世界では存在しないものであり、アベックのみがただそこにある。
1にアベック、2にアベック、3、4がアベック、5もアベック。右のお客さんから、アベック、アベック、アベック、1人飛ばしてアベック。ぼくはいったい何を言っているのか。

ぼくは決してアベックをバカにしているわけではない。むしろ好きである。アベックという言葉ほど、ノスタルジーをじっくりことこと煮詰めた言葉はないと思っている。1964年の東京オリンピックや1970年の大阪万博の話を聞いたときと同じような心持ちになる。大橋巨泉の青春時代を追体験するような感覚、とでも言うのだろうか。基本的に脳内イメージがセピア色である。実際に体験したわけではないのに懐かしいと思ってしまう。いったい何が懐かしいというのか。

そんなことが頭をよぎったあと、少しずつアベックの余韻が薄れていく。少しずつ時間が動き始める。その間も大橋巨泉は何事もなく話をしているし、地球は周っているし、どっちかの夜は昼間である。ぼくの時間は一瞬止まっていたが、周りのお客さんはどうだったのだろうか。みんなおすまし顔をしていたが、本当はアベックに時間を止められて冷や汗をかいていたかもしれない。

「アベックは時間を止める説」をここに提唱したい。提唱したところで何かあるわけではないが。